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サラリーマン奴隷のふとしたことを

読書感想文:武士道(新渡戸稲造)

読むきっかけと目的:
ニュースが良くわからない。近代史を知ることで理解の一助になるだろうと考えた。また、昔の人のメンタリティを知りたい。時間が人のメンタリティをどの程度変えたのか、現代と昔を比較できる、よい書籍だろうと考えた。

要約:
 武士道は暴れん坊集団である武士達の行動規範として仏教神道儒学陽明学)を基礎にしている。武士道による日本民族の特性は義、勇、仁、礼、信(誠)、名誉、忠である。
 「義」とは道理(正義)を通すことである。損なことでもあえて実行する、あるいは耐え忍ぶ精神のことだ。四十七義士は大衆教育にもよく用いられる義の例だ。
 「勇」は「義」を実行するために必要な気概のことだ。正しいことを認識して、もしそれを行わないのは勇気がないためだ。普通の人には深刻な事柄も勇敢な人には遊びに過ぎなくなる。さらに勇気はスポーツ的な要素もある。衣川の合戦においては追手の大将が「衣のたては ほころびにけり」と声高に叫んだところ、敗軍の将は「年を経し 糸のみだれの 苦しさに」と上の句を返した。また、北条氏から塩の供給を絶たれた武田信玄に対して、上杉謙信は敵に塩を送った。「勇」がここまでの高みに達すると「仁」に近づく。
 「仁」は統治者の最高の要件であり、封建制の統治が専制主義とならなかったのは仁のおかげだった。また、「仁」は武士の情けなどにみる優しさや愛情のことである。「窮鳥が懐へ入る時は、猟師もこれを殺さない。」というのも一例だ。「仁」の底流にある風雅を養うために歌を詠むことが奨励された。ある田舎侍の鶯に関する和歌がある。彼は当初「鶯の初音をきく耳は別にしておく武士かな」と詠んだが、後には「武士の鶯きいて立ちにけり」と詠むに至った。歌や音楽により優しさの感情が養われ、他人の痛みに対する思いやりの気持ちが育ち、その心はやがて「礼」の根となる。
 「礼」とは他人の気持ちを思いやる心のあらわれだ。面倒な細かいルールが多くある礼儀作法も、有名な流派である小笠原流によれば、心の修練そのものだと云う。その一例として「茶の湯」がある。戦場や政治上の心配事を抱える武将も小さく清貧な茶室内では、悩みを置き去り、平和と友情を見出した。しかし、「礼」にも「信(誠)」がなければただの茶番となってしまう。
 「信(誠)」とは嘘やごまかしの無いことだ。伊達政宗は「礼」が過ぎると嘘になるといった。また、「武士に二言はない」という言葉も「信(誠)」の一例だ。しかし、よく日本人は嘘をつくと外国人から言われる。それは日本人が事実よりも「礼」を重んじるからであり、真実については「信(誠)」を以って回答するだろう。例えば、胃が痛かったとしても、「元気ですか?」と尋ねられれば、「礼」を優先して、「はい、元気です」と回答する。ところで、「信(誠)」と「名誉」という観念は混ざり合っている。(本には記載ないが、その一例に「武士は食わねど高楊枝」があろう)
 「名誉」はサムライの特徴をなすものだ。恥の感覚は非行を働く少年の行動を正す、効果的な手段であった。しかし、町人から背中にノミがついていると注意されたサムライが、町人を斬ってしまうというような事例もあった。その「名誉」の行き過ぎは忍耐によって相殺された。西郷隆盛敬天愛人(天を相手に万策を尽くし、それでも事が成らなければ、我が誠の足りなさを反省せよ)などがある。また、大阪冬の陣で先鋒になることを熱望したものの、後備に配置され口惜しんだ徳川頼宣のように「名誉」が得られるならば生命さえ、安価と考えられた。その底流には「忠義」があった。
 「忠義」は封建的な諸道徳のアーチの要石であり、最も重んじられた。菅原伝授手習鑑にあるように、主君の息子の身代わりとして、他の子を生け贄にすえる家臣がいて、その首実検の役目は身代わりの子の父親が務めるなどがその一例だ。一方で主君への追従のみが行われていた訳ではない。自分自身の良心を主君の気まぐれな意思や酔狂のために犠牲にする者は武士道では軽蔑された。あらゆる手段を尽くして主君に諫言すること、それが容れられない時は自分の血を注いで己の誠実さを示し、これに依って主君に最後の訴えをするのが当たり前の道筋だった。

 武士の教育は第一は上記の封建制における諸道徳の習得(人格形成)であり、思慮、知識、弁活は軽視された。したがって、その教師は学習の目的の体現者であることを期待され、克己の精神の生きた模範だった。克己の理想は心の平安を保つことだ。また、「礼」との結合によりストイックな気質を生んだ。また、日本人の笑みは思いを隠すための技術である。「口開けて腸見せるザクロかな」は誠実でないしるしとされた。思いを隠すはけ口としての詩歌もある。ある母親はその傷心を慰めようと次の句を吟じた。「蜻蛉つり今日はどこまでいったやら」。
 さらに克己の極地として「切腹」がある。「切腹」は自己の誠実さを証明する行為だった。これによって命の安売りも見受けられた。しかし、本当の武士にとっては、これは臆病に似た行為だった。山中鹿之助は次の句にみる不屈の精神で自らを励ました。「憂きことのなほこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん」
 武士道の影響は大衆娯楽にも及んでいる。仕事終りの丁稚は退屈な帳場の仕事を離れ、義経と弁慶、信長と秀吉などの戦場の話をしては功名をあげる夢を見た。このように武士道は日本人の理想となった。本居宣長は「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」と詠った。ところで、脆く滅びやすいと詠われた大和魂だが、武士道はまだ生きているだろうか?
 武士の時代は約700年続いており、まだ生きていると言える。吉田松陰は「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」と詠い、つまり武士道とは我が国に精気を吹き込む行動の力と云える。近代日本の建設者(武士道が出版されたのは明治32年西暦1899年)である西郷隆盛大久保利通の回顧録を読んでもそれが分かる。そして、明治の日本の変貌の源泉は武士道にあった。その変化は自発的であった。トルコがヨーロッパから大砲を輸入したように日本は機械科学を輸入した。変化の動機は劣等国と見下されることを容認できない「名誉」の感覚からだった。
 しかし、武士道の余命もあとわずかのようだ。封建制の廃止、老い過ぎた神道(騎士道は教会により延命措置がとられた。武士道のそれは神道)、古典の衰退(知的成り上がりの台頭)によりカウントダウンされ、今の要求に迎合する快楽傾向の道徳理論が武士道にとって代わりつつある。最近は日清戦争の勝利に世間が湧いているが、どんなに産業が進み優れた製品(武器)ができても、それを運用するのは人間だ。精神抜きでは最良の道具も殆ど役に立たない。最近の功利主義の損得哲学に対峙できるのはキリスト教のみだ。武士道は美徳として残り続けるだろうが、道徳体系としては桜のように散ってしまうだろう。


感想:
 まず、ニュースという観点から。モンスターペアレントという言葉をよく聞く。教師のレベル低下も大きな要因だろうが、親が教師へ期待するものに武士道を源泉とする道徳が今も残っているからではないかと推測する。道徳?(人としての行動規範)を学校で教えるのではなく、家で教える方がいいと僕は考える。確かに、集団生活を必要とする学校は、家と異なる。自ずと子の振る舞いも学校と家では異なるだろう。家で教えることのできる内容も限られてしまう。例えば、他者貢献の必要を子が認識するのは学校の方が環境として適しているだろう。ただ、それを学校教師にすべて期待するのは間違いだ。学校以外の集団行動を必要とするコミュニティに子を参加させるといった努力を親が怠ってはいけない。サッカーやラグビーといったチームスポーツは他者貢献の必要を認識する場として効果的ではないだろうか?一児の親として子には何かのチームスポーツをさせたいなあ。
 昔と今の違いという観点から。封建制における諸道徳の中で僕に最も無い考えは「忠義」だ。そもそも、仕事をする上で「忠義」は必要なのだろうか?仕事上の問題点があれば上司に報告するが、それは「忠義」からではなく、サラリーマンとしての義務だし、何かの提案にしても、自己犠牲を伴わない他者貢献に近い感覚である。サービス残業なんてしたくないし、仕事における「忠義」の有り無しによる結果の違いはあるのか?「忠義」なんてものは散り去って、もはや現代には跡形もなくなったのだろうか?機会平等の現代にあって、階級的精神の武士道にある最もしっくりこない考えだ。司馬遼太郎の王城の護衛者で書かれた会津藩主、松平容保をふと思い出す。「忠義」があっても報われるとは限らないのだ。
 ところで、「昔がこうだったから、あなたもそうしなさい」と年長者が若い人に言うのは間違っていると思う。新渡戸稲造もその主張はしていない。武士道はもうすぐ死ぬし、美徳としてしか残らないでしょうと言っている。「武士道なんてもうないのだから、明治維新の栄光にすがるのはおやめなさい」という注意にも解釈できる。


余談:
だからどうしたって感じですが、近代日本が1867年に始まり、来年の2017年に150年を迎えるのですね。